「故郷は遠きに在りて思うもの」- 几篇旧文的日语版

前些日子,日本友人温子把我的几篇旧文翻译成了日语,介绍给了她的读者。温子女士在香港居住14年,北京13年半,前两年回到了东京。

关于温子的一个故事是,她刚回到日本后没多久,就抱怨说,身边全是日本人,好不习惯。

据温子说,她的读者看完拙作之后,写信给她,表示我对故乡以及老乡们的悲哀以及感情, 小时候的记忆和现实的对比,让他感动。边读边响起来了鲁迅的“故乡” 。

这个评价当然毫无疑问、过誉之极,愧不敢当。我不是一个作家,坦白说,能力也不够,只是想记录一下身边发生的事情。但能让日本友人了解当下中国的一角,虽然只是管中窥豹,且主要靠的是温子的翻译,但也觉与有荣焉。

温子的原文发表在她的收费电子刊物上,蒙温子同意,本着炫耀的心理(这是我第一次有外语版),将她的原文贴在下方。

如有人想订阅温子的电子刊物 中 国 万 華 鏡 § 之 ぶんぶくちゃいな,可以点击此处:https://note.mu/wanzee (阅读原文)

「故郷は遠きに在りて思うもの」ある中国人の帰郷

中華圏は来週金曜日の2月16日に春節を迎える。今はメディアも春節前の話題で盛り沢山である。昨日冬季オリンピックが始まった韓国でも、オリンピック会期中にやはりお正月を祝うことになり、これはこれで珍しい光景が日本の家庭にも流れてくるかもしれない。

とはいえ、中国では春節は楽しいばかりではない。日ごろは故郷を離れている人たちが大挙して故郷に戻ってきて楽しいお正月を過ごせる人たちがいる一方で、さまざまな理由で帰ってこない人たちを待つ人もたくさんいる。周りが賑やかなだけに日ごろ待つことに慣れている人たちにとっての寂しさは倍増する。

帰らない人たちにもさまざまな理由がある。お正月にも仕事に追われる人。根っから帰るつもりがない、あるいは帰りたくても帰ることができない理由がある人。そして、帰郷したあとで苦い思いをする人もいる。

今回はわたしの友人、陳双葉さんの帰郷や故郷に関するエッセイをご覧いれようと思う。彼はわたしが北京で知り合った友人の中でも、とくに寂れた農村の痛みと大都会北京のど真ん中で暮らす者としての、二重の思いを常に持ち続けている人である。

彼の故郷は江蘇省の農村にある。北京からの距離はほぼ1000キロ、北京から列車で最寄りの駅まで約8-9時間かかる。その駅のある中心地から故郷の村にある家まではさらに30キロあり、バスで1時間、タクシーでも30分かかるという。

農民家庭出身だが、成績優秀だった彼は北京の大学に進学、あるメディアの編集者の仕事を経て、今は某国大使館に勤めている。誰にでも親切で優しい彼は、しかしお人好しでシャイなところが災いしたのか、未婚のままだ。最近、ガールフレンドが出来たとSNSで宣言して、周りの人たちの大歓声を巻き起こした。

北京での暮らしももう10年以上になり、英語で堂々と大使館の仕事をこなす彼は誰が見ても、都会のエリートである。だが、じっくりと彼と話をしたり、彼が書くものを読めば、大都会のど真ん中で彼がどれほど故郷のことを思い、故郷の寂れ方に心を痛めているかがよく分かる。そして、その話を聞くたびにそれが彼の故郷だけではなく、農村に親兄弟を残し、都会で働く人たちを代弁しているだけなのだ、といつも感じてきた。

近年、彼もやっと北京にマンションを購入し、やっと「拠点」を構えることができたという。それでも彼の都会と農村の巨大な隔絶を巡る思いは止まることがない。そんな彼の、故郷にまつわるここ数年のエッセイから、中国の農村が置かれた現状を少しでも感じとっていただければうれしい。

●2015年5月20日:野場荘

野场庄

実家から西南方向に3、400メートルほど行ったところに小さな集落があり、野場荘と呼ばれている。野場荘に住んでいるのは10戸ほど、すべて陳という姓の家だ。そこはその昔、ぼくら陳家の脱穀場だったところで、その後じわじわと人が住み始めたのだそうだ。

野場荘の裏には大きく葦が生い茂っている。以前そこは小さな湿地で水生植物が生い茂り、水鳥が暮らしていた。でも子どもからすると葦や菖蒲がざわざわと無限大に生い茂っているように思え、夜にそのあたりを通りがかると、真っ暗な沼地から突然怪物が飛び出してくるのではないかとおそろしかった。

小学校の同じクラスにぼくより4歳年上の、本家のお兄ちゃんがいて、彼といっしょにぼくはたびたびあの沼地に行って、一緒に鳥の卵を探したり、鳥のひなを捕まえたりした。5年生になると、学校の教室で自習するという口実で石油ランプを持ち込んで、ほとんど二人でそこで遊んでいた。

その後、ぼくは上の学校に上がったが、彼は中学を卒業してすぐに村の外へ出ていった。ぼくが大学に合格した頃、彼は外地から女の子を連れて帰ってきて、べたべたととても幸せそうな様子を見せつけてくれた。

彼はぼくに、自分が北京でどんなふうに他人と殴り合い、どんなふうに女の子をひっかけたかを話してくれた。お金がなかったのでどんなふうに仲間とともに天津から北京まで歩いて帰ってきたか、そして途中でお腹が空いてどうしようもなくなったときに、橋の下で暮らす一家に出会い、そこの奥さんが麺を食べさせてくれたそうだ。そして彼は「北京は寒いぞ」と言った。北京に来てからぼくは、大学の宿舎や教室には暖房[*]がついていて、冬には建物の中で夏よりも薄着で暮らせることを初めて知った。

[* 大学の宿舎や教室には暖房:中国では寒さが厳しい長江以北の地域では公共施設や一般集合住宅に公共の暖房が完備されている。郊外の農家も一般に地域共同、あるいは家ごとに暖房ボイラーが備え付けられていることが多い。]

その後、彼が連れて帰ったあの外地の女の子は彼の元を去った。彼は同じ村の女性と結婚して子どもが出来たものの、上海に働きに出て大腿をケガをしてしまい、きつい仕事ができなくなった。

その彼が数年前、同郷の人を連れて訪ねてきて、ぼくに北京で官吏をしている同じ村出身者に連絡をとってほしいと言った。彼に託して他人の借金を取り立てるためだという。それはだいたいこういう話だった。彼が連れてきた同郷の人がある土地で建設現場の親方としてホテル建設に関わった。だが、その土地の新しい官吏がそのホテルは違法建築だと取り壊したため、2、3000万元(約3億5000万円から5億円)の損失を被ったという。彼が人の借金取り立てに関わっているのはその分前をもらうためで、前後して他人から1、20万元(約170万円から350万円)を借りて相手をもてなして、関係作りをしようとしたが、結局そのお金を取り立てることはできなかった。

その後、彼は故郷の村で路面店舗を借り、自分でキッチンに立って軽食屋を始めた。だが、やはり商売がうまくいかない一方で、賭け事にはまってしまい、さらには他人の借金取り立てを請け負ったことで大きな借金を負い、店を閉めて南方に働きに出た。

去年、その彼から電話があった。借金を踏み倒して南方のある都市にいて、ポン引きをするつもりだと言っていた。ぼくに、北京で官吏をしているあの同郷人に連絡を取って、なにか金になる商売ができないかどうか尋ねてくれ、と言った。

今年、帰郷したとき、中風で足元がおぼつかない彼の父親から、彼はまた他の都市に引っ越して働いていると聞いた。

野場荘のあの沼地はいつのまにかなくなっていた。5、6年前の春節に帰ったとき、いとこたちとあの辺りをぶらぶらしたことがある。地面にたくさん大きな穴が開いているのを見て一緒に飛び込んだ。だが、足元が定まらないうちから凍っていた氷が下へと沈み始めて、慌てて手と足を振り回して必死で這い上がった。その穴は、砂をそこから掘り起こした跡だったのだ。

ぼくの家の前には池があった。夏には父さんと一緒にザリガニを釣り、冬は仲間たちとパンツを脱いで魚を捕まえた池だ。今やその池はすっかり埋め立てられ、次々と数階建ての住宅が建っている。村の真ん中にある大きな池は埋め立てられてはいないが、岸辺に汚水処理場が新しく出来ていた。

●2015年9月8日:3題

故事三则

1.

実家のWi-Fiにはいまだにパスワードを設けていないので、毎日夕方になるといつも子どもたちが塀の外に座り込んでそれを使ってネットを楽しんでいる。ただ、うちの便所はその塀のそばにあり、子どもたちがそこから離れて座り込んでいるなら、家人が便所を使うときに気まずい思いをせずに済むのだが。母さんはなんどかの試行錯誤の結果、トイレに行く前にルーターを引っこ抜き、戻ってしばらくしてからつなぎ直すようになった。

ある晩、男が一人塀のところにしゃがみこんでいるのが目に入った。手にiPhoneを握り、じっとそれを見つめている。ぼくが便所から出てくると、自分から彼が声をかけた、「やぁ、帰ってたのか」。頭のてっぺんが禿げた中年男をよく見ると、見覚えがあった。ぼくより5、6歳年上で、子どものころよく一緒に遊んだやつだった。一言二言言葉をかわして、すぐにそこを離れた。うちでよもやま話でもどうだ、と声をかけることはしなかった。

本当のことを言うと、帰ってきた翌日に彼がたびたびうちの塀の外にうずくまってWi-Fiを拝借していると、他の人から耳にしていた。雨の日でも彼はレインコートを着て、そこにうずくまっているそうだ。

ぼくが大学生だったころ、彼は村の外から嫁さんを連れて帰ってきた。以前雨の日の午後、その嫁さんが畑から帰ってくるところを見たことがある。足に泥がべったりついていて、たぶんとうもろこしに堆肥をしていたのだろう。

人が言うには、彼はその嫁さんの間に子どもを6人もうけたが、そのうち4人を売り払い、7、8万元(約121万円から138万円)を手に入れたのだが、賭博で全部すってしまったという。村のほとんどの人たちが彼を忌み嫌っていて、彼に近づくやつはみな、彼が子どもを売った金が目当てだった。

彼のあだ名は「楞小四」。「楞」というのは方言で「バカ」を意味する。だが、彼のほうは知能に問題はなく、見たところ彼の嫁さんの方に知的障害があるようだ。

2.

去年[訳注:2014年]帰郷したとき、叔父宅の子に会った。首には小指ほどあろうかという太い金のチェーンをつけていた。手にはどちらにも金の指輪を3、4個つけていて、見るからに成金そのものだった。車でぼくを送ってくれる間、彼はずっと自分の実力とやらをひけらかし続けた。そして家に着くと、ぽんと2000元(約3万4000円)を放り出し、7、8年前に借りたお金をぼくに倍返ししてやると言った。ぼくは彼に貸した1000元(約1万7000円)だけ受け取った。

当時彼は高利貸しをしていて、噂では800万元(約1億4000万円)くらいお金を持っていたようだ。

今回の帰郷では、彼が警察の手入れから逃げようと、賭場の2階から飛び降りて足を折ったと聞いた。父さんはそれを知って、本当にそんなことで足を折ったのなら、見舞いになんぞ行くかとはっきり言った。

今じゃ、彼はどこからどうやって手にしたのかわからない金をすべてすってしまい、借金だらけになった。あの嫁さんも離婚するって騒いでいるという。

3.

数年前、いとこの姉さん一家が姉さんの旦那のいとこが開発している、村近くの団地に15万元(約260万円)を投資した。団地は結局、建設されず、詳しいことは分からないが、かつて村の党委員会書記まで務めたその男は開発業者の数千万元を持って、子供と嫁さんと一緒に夜逃げしてしまったらしい。

ある夜、村人が彼の車を見かけ、近づいてみたら中に彼が乗っていたが話をしようとせず、ただニッコリ笑って会釈したそうだ。

その男と一緒に団地開発をしようとした他の8人は、みな今監獄にいる。その村ではもう1件、ある委員会の会長がやはり100万元(約1700万円)あまりを懐に入れて、ブタ箱行きになっている。

●2016年2月25日:除夕(春節大晦日)

除夕

どうにかこうにか大晦日の正午前に家にたどり着いた。陽光は降り注ぎ、風が強い日だった。

半年ぶりに帰ってきたが、家の前を走る道路沿いにはまた幾棟かの住宅ビルが姿を表していて、これから建設に備えている家もあった。まったく同じ形の2階半建ての小さなビルは、緑色の窓枠に床までのガラスがはめ込まれ、金色のローマ風の柱で中国風の屋根には吉祥物が並び、とってつけたような中西混成ぶりだ。横の壁はペンキが塗られないままべとっとしたセメントの色むき出しだ。春節がやってくるからと、どの家のポーチにも赤い大提灯がぶら下げられ、お祝いムードを醸し出していた。

よく見ると、あたりでまだ建て替えていないのはわずか数戸だけになっていた。父さんや母さんも言い争っていた。他の家がみんなやってるんだからうちも建て替えないわけにはいかない、でも2階建ての家を建てても(両親以外)住む人なんていないじゃないか、でも新しい家と家に挟まれてしまったらみっともないし、と言い争っていた。

ぼくはその前日に駅のある中心街でスマホを無くしたばかりで、おかげで世界とのつながりを失ってしまい、なんともいえない落ち着かない気分だった。

昼食後、母さんと一緒に春聯[*]と門祠を貼った。春聯は東西南北どこでも同じ風習だが、門祠はうちの辺りでしか見たことがない。門祠とは、「年年有余、五穀豊登」(年々豊かに、五穀豊穣)などの文字を刻んだ長い切り紙で、窓枠の上に貼る。この言葉もぼくが勝手に作ったものだ。というのも、故郷の言葉は音だけで書面の文字がないからだ。

[* 春聯:春節を迎えるために家の入口や門に貼る赤い紙に書かれたお祝いの言葉。]

ドアに貼る門祠が長すぎて一人では貼れなかったので、二番目のおじさん宅のいとこを呼んできて手伝ってもらった。いとこは東北地区の軍隊にいるが、ちょうど士官になって2年ぶりに故郷に戻ってきた。青い空軍の制服を着た彼がベンチに上がってぼくと一緒に門祠を貼ってくれた。だが、あの長い長い切り紙が風に吹かれてゆらゆらとしていたので、母さんはセロテープを持ってきてぺったりと貼り付けた。

小さい頃、村の家に飾る春聯はほとんど父さんが頼まれて書いていた。いつの頃からか、どの家も買ってきた春聯を貼るようになり、誰も彼に書いてくれと言わなくなった。ぼく自身も春聯を最後に書いたのはいつの頃だったのかもう覚えていない。

午後、外で麻雀をしていた父さんが帰ってきた。母さんの年越し料理もほぼ出来上がった。いつもどおり、大晦日の日はまず先祖にお賽銭を焼いてお酒を祀る。だが、紙のお賽銭がベッタリと張り付いていて煙が出すぎたと、母さんがまた父さんに小言を言った。

年越し料理はいつものようにご飯と魚、そして肉。父さんは体調が良くないので、白酒(バイジウ)の小瓶を2本飲んだだけだった。ぼくはいとこの旦那が去年くれた南アフリカのワインを開けて、母さんに一杯注ぎ、残りのほとんどをぼくが飲み干した。

晩御飯が終わるとほどなく宵闇が到来し、外から遠くに近くに花火や爆竹の音がしてきた。母さんが花火の入った箱を持ってきて、ぼくに外で火をつけてこいと言った。夜空に上がる花火を見ながら、ぼくはiPhoneを取り出してその様子をビデオを取ろうとしたが、ふとiPhoneは盗まれたんだったと気がついた。「楚人失之、楚人得之」(自分が失くしたものを、誰か人が手に入れた)ってことなんだろうなとぼんやり考えた。

「80元(約1400円)分があっというまに無くなっちゃったねぇ。去年はお前が帰ってこなかったから、花火は買わなかったんだよ」と、そばでじっと焚き火を見ていた母さんが言った。

●2017年1月26日:「舂」節おめでとう!

舂节欲快,活家欢络!

今年の春節は帰郷しない。数日前、両親が北京にやってきて、このまま一家で北京で過ごすことに決めたからだ。

あと2日で春節、陰暦新年である。英語では一般に「Spring Festival」または「Chinese New Year」「Lunar New Year」と呼ばれる。子供のころ、ぼくらは春節こそが新年だと思っていた。そして春節がくると、本当に一つ年を取ったと感じていた。

「Chinese New Year」は「中国の新年」の直訳で、「Lunar New Year」は「陰暦新年」を訳したものだ。アメリカの大統領と国務長官は毎年、陰暦新年にお祝いの言葉を述べるが、それは「President’s Lunar New Year message」と呼ばれていて、「Chinese New Year message」ではない。というのも、春節はもとはといえば中国が発祥かもしれないが、今では韓国、ベトナムなどのアジア諸国も祝っているからだ。だから政治的な正確さに照らして、「Lunar New Year」と呼ぶようになった。

Lunarは形容詞で「月の」という意味で、ラテン語の「月」を意味する「Luna」から来ている。英語の「月」は「Moon」であることは、みなさんもご存知だろう。

中国では「農暦」と呼ばれる陰暦は、「Lunar calendar」(月のカレンダー)とも呼ばれるが、実際には太陽暦と太陰暦を合わせた「太陰太陽暦 Lunisolar calendar」で、イスラム教のように純粋な太陰暦ではない。たとえば、二十四節気は太陽の動きに準じていて、月の動きではない。だから、中国の清明節はいつも4月4日か5日になる。

中国が現在採用しているのは「グレゴリア暦 Gregorian calendar」で、ローマ教皇グレゴリア13世が1582年に実施した暦法である。それまで使われていたのは「ユリウス暦 Julian calendar」だ。この「ユリウス Julian」というのは、一般にカエサル大帝として知られる「ジュリアス・シーザー Julius Caesar」から来ている。

ロシアの十月革命について耳にしたことがあるだろう。十月革命はぼくたちにマルクス・レーニン主義をもたらした革命だ。その十月革命は現行の西暦に照らすと、実は11月7日に起きている。だが、当時のロシアではまだユリウス暦が使われていたので、その日は10月25日だった。ロシアでは1918年になってやっとグレゴリオ暦を使うようになった。だからロシアでは1918年1月31日の翌日は2月1日ではなく、突然2月14日になった。この日からグレゴリオ暦が施行されたからだ。

春節の前にもう一つ重要な祭日がある。「小年」、かまどの神を祀る日だ。「上天言好事,下界保平安」(火の神様が上機嫌でいてくれれば、外界は平安)といわれる。かまどの神を祀るのは一般に陰暦の12月23日か24日である。南方は「二十四祭灶」、北方は「二十三祭灶」が風習らしい。ぼくの故郷では姓ごとに祀る日がばらばらだ。ぼくの家は何日だったかもうすっかり忘れてしまったが、その日母さんは必ずかまどの神様に聞いてもらおうと、小さな爆竹を鳴らす風習がある。

かまどの神様というのも不思議な存在で、具体的になにが根拠になっているのか、ぼくはきちんと調べたことはない。「論語・八佾」[*]には、「王孫賈問孔子説,『與其媚於奥,寧媚於灶,何謂也?』」とある。「奥」とは家の西南角で、家の中で最も日が当たらず、最も奥まったところを指していて、「奥秘」など「奥」という文字が持つ意味はここから来ている。古人はそこで祀りをし、そこから家の中で最も尊い場所とされるようになったという。

[* 論語·八佾:「八佾」は論語の20篇のうち第3篇目にあたり、26本から構成されている。]

かまどは、いわゆる「五祀」[*]の対象の一つだ。その地位はそれほど高くはないものの、その役割は直接的である。論語がいうのは、だいたいこうだ。

[* 五祀:戸神(家に宿る神)、灶神(かまどに宿る神)、土神(土地に宿る神)、門神(出入り口に宿る神)、行神(道に宿る神)を祀ること。]

「王孫賈は遠い県の官吏に媚びるよりも、直属の管理者に媚びるほうが役に立つと考えたが、それに同意しなかった孔子はこう述べた。『いや、天上の神を怒らせれば、どんなに祈祷しても無駄である』」

かまどの文字は簡体字では「灶」だが、繁体字だと「竈」と書く。ぱっと見てもどんな字かよく見えなかったら、それが正しい文字だ。

それではみなさん、「舂」節をにぎやかに、ネットで楽しく過ごしましょう!

●2018年1月4日:百態

百态

ぼくがずっと結婚しないままなので、村ではとっくに「ダメなやつの見本」にされてしまっている。母さんは人の多いところには出かけたくない、人に尋ねられたら気まずいから、と何度もぼくに言う。今ではこのレッテルもますます根深いものになっていて、「女も見つけられないなんて、大学出てても役立たずは役立たずだな!」と、ある村の人は人が集まる場でこう言い放った。

2017年5月、長年がんと戦ってきた小学校の時の徐先生が亡くなった。徐先生はとても落ち着いた物腰で、言葉遣いも丁寧な人だった。ぼくにとって、お見合い相手の基準は今でも徐先生だ。徐先生と同じくらいか、もっときれいだったらいい。つまり、とても美しい人なら。それを聞いて母さんはちょっとムッとした。というのも、徐先生はもう亡くなってしまった人だからだ[*]。

[* 中国では死人と生きている人を比べるのは、生きている人に対して不敬にあたる。]

徐先生が亡くなってから半年も経たないうちに、残された旦那がガールフレンドを作ったらしい。それで娘さんと大げんかをしたという。ぼくはもちろんそれは個人の自由だし、決して悪いことではないからそれでいいと思う。だが、性別が逆だったら、つまり女性がボーイフレンドを見つけたなら、世間はそう簡単に許さなかっただろう。寄ってたかって爪弾き、はさすがに大げさかもしれないが、あれこれ噂されるのは間違いない。小学校のときの同級生はずっと前に父親を亡くしたが、母親はその後年のいった人と交際を始めた。そのことに村人が触れるとき、その口調はほとんどが貶しだ。男女平等は本当に難しい。

中学校の同級生は以前、人と一緒に携帯電話を売る会社を作り、彼は外回りの影響を担当し、パートナーが運営を担当した。半年前、よそからやってきたパートナーが撤退を決め、彼は地元に残ることを決めて会社を引き継いだ。一つは数十人いる職員のため、もう一つは自分も放り出してしまったら故郷で(肩身が狭くなって)今後暮らしていけなくなるからだ。短期間に200万元(約3500万円)をかき集めてパートナーとの手切れ金と近く契約切れになる部屋代に当てた。結局、会社の職員たちを引き止められただけではなく、新たに店舗を2つ開き、3部屋あるマンションの一室をオフィスとして借り、新しい職員を募集するに至った。だが、この半年の間休みなく働き詰め、いつもいつも辛そうに苦しそうにプレッシャーと戦っていた。楽に生きられる人なんて誰もいないんだよな。

●2018年1月8日:帰郷メモ

回乡偶记

数ヶ月見ないうちに、実家の前後に二階半建ての住宅がまたいくつか出来上がっていた。外見はほとんどそっくり同じで、金色のローマ風柱、中国式の屋根の吉祥物飾り付き、という代物。一棟だけ3階建ての建物はどうにか施工主がどうやら少々まともな審美眼を持っていることを教えてくれるが、にょきっと伸びたその様子は鶏の群れに迷い込んだツルのようだ。

ぼくの家ではなにも建てていない。お金がないし、建てるつもりもない。隣の家もまだだが、すでに予定は立てている。遠くからぼくたち2軒の様子を眺めると、それはまるで前歯が2本抜けた子供の歯並びみたいだった。

20年前、江蘇省南部ではどこの家も自宅を建て替え、小さな車を買っていたころ、ぼくたちの村はやっと瓦の載った屋根の家に住めるようになった。いまやっと、ぼくたちの村も2階建ての家に住み、小さな車を運転できるようになったが、江蘇省南部の人たちはすでに豆乳を1杯飲みながらもう1杯は大地に捨てるほど豊かになってるんじゃないだろうか?

建物はどれも一見して田舎っぽさが漂っているが、それでもどうにかカッコはついている。最大の問題は農村には集中した下水道システムがないことだ。水洗便所という現代的な設備はつけたものの、それぞれの家でし尿処理用の穴を掘らなければならない。上に厚いコンクリートの蓋を置き、自然に地下へと浸透させるのだ。もし、そこからあふれ出そうものなら、いたるところに「黄金」が散らばることになる。たとえその心配はなくても、地下水が激しく汚染されることは間違いない。

今回の帰郷は祭日でも正月でもなかったから、子どもの頃の遊び友だちはみな、外に出稼ぎに行っていた。大学を卒業した後蘇州で働いていた大利が仕事を辞めて嫁さんと一緒に戻ってきて、電子商取引に専念していた。彼の家のドアを開けると、彼と嫁さんが太陽がさんさんと降り注ぐ部屋の中でそれぞれにノートブックコンピューターを見つめていた。

大利と嫁さんはネットショップで血圧計、おもちゃなど何でもかんでも売っていた。彼の手元には在庫はなく、ただの中間販売者として注文を受け取ってからサプライヤーに配達を手配するという方法である。売上はどうだ、と尋ねたら、蘇州で働いていたときと同じくらいだ、でもこっちのほうが制約がなくて自由だね、と言った。

彼が言うには、今では村のどの家もビニールハウスで野菜やスイカを作っていて、1年にビニールハウス10個位は売れるから、それぞれ2、3万元(約35万円から50万円)とすれば1年に2、30万円(約350万円から500万円)くらいの収入になり、コストを差し引いても半分が利益になるという。村でも5、60万元(約870万円から1000万円)の現金をぽんと出せる家は少なくないのだそうだ。それを聞いて、ぼくはなにも言えなくなり、手にした保温カップを見つめるしかなかった。

1時間ほど子どものころの話をして、二人が忙しそうにしているのを見て、邪魔をしては悪いとぼくは家に帰った。