「故郷は遠きに在りて思うもの」- 几篇旧文的日语版

前些日子,日本友人温子把我的几篇旧文翻译成了日语,介绍给了她的读者。温子女士在香港居住14年,北京13年半,前两年回到了东京。

关于温子的一个故事是,她刚回到日本后没多久,就抱怨说,身边全是日本人,好不习惯。

据温子说,她的读者看完拙作之后,写信给她,表示我对故乡以及老乡们的悲哀以及感情, 小时候的记忆和现实的对比,让他感动。边读边响起来了鲁迅的“故乡” 。

这个评价当然毫无疑问、过誉之极,愧不敢当。我不是一个作家,坦白说,能力也不够,只是想记录一下身边发生的事情。但能让日本友人了解当下中国的一角,虽然只是管中窥豹,且主要靠的是温子的翻译,但也觉与有荣焉。

温子的原文发表在她的收费电子刊物上,蒙温子同意,本着炫耀的心理(这是我第一次有外语版),将她的原文贴在下方。

如有人想订阅温子的电子刊物 中 国 万 華 鏡 § 之 ぶんぶくちゃいな,可以点击此处:https://note.mu/wanzee (阅读原文)

「故郷は遠きに在りて思うもの」ある中国人の帰郷

中華圏は来週金曜日の2月16日に春節を迎える。今はメディアも春節前の話題で盛り沢山である。昨日冬季オリンピックが始まった韓国でも、オリンピック会期中にやはりお正月を祝うことになり、これはこれで珍しい光景が日本の家庭にも流れてくるかもしれない。

とはいえ、中国では春節は楽しいばかりではない。日ごろは故郷を離れている人たちが大挙して故郷に戻ってきて楽しいお正月を過ごせる人たちがいる一方で、さまざまな理由で帰ってこない人たちを待つ人もたくさんいる。周りが賑やかなだけに日ごろ待つことに慣れている人たちにとっての寂しさは倍増する。

帰らない人たちにもさまざまな理由がある。お正月にも仕事に追われる人。根っから帰るつもりがない、あるいは帰りたくても帰ることができない理由がある人。そして、帰郷したあとで苦い思いをする人もいる。

今回はわたしの友人、陳双葉さんの帰郷や故郷に関するエッセイをご覧いれようと思う。彼はわたしが北京で知り合った友人の中でも、とくに寂れた農村の痛みと大都会北京のど真ん中で暮らす者としての、二重の思いを常に持ち続けている人である。

彼の故郷は江蘇省の農村にある。北京からの距離はほぼ1000キロ、北京から列車で最寄りの駅まで約8-9時間かかる。その駅のある中心地から故郷の村にある家まではさらに30キロあり、バスで1時間、タクシーでも30分かかるという。

農民家庭出身だが、成績優秀だった彼は北京の大学に進学、あるメディアの編集者の仕事を経て、今は某国大使館に勤めている。誰にでも親切で優しい彼は、しかしお人好しでシャイなところが災いしたのか、未婚のままだ。最近、ガールフレンドが出来たとSNSで宣言して、周りの人たちの大歓声を巻き起こした。

北京での暮らしももう10年以上になり、英語で堂々と大使館の仕事をこなす彼は誰が見ても、都会のエリートである。だが、じっくりと彼と話をしたり、彼が書くものを読めば、大都会のど真ん中で彼がどれほど故郷のことを思い、故郷の寂れ方に心を痛めているかがよく分かる。そして、その話を聞くたびにそれが彼の故郷だけではなく、農村に親兄弟を残し、都会で働く人たちを代弁しているだけなのだ、といつも感じてきた。

近年、彼もやっと北京にマンションを購入し、やっと「拠点」を構えることができたという。それでも彼の都会と農村の巨大な隔絶を巡る思いは止まることがない。そんな彼の、故郷にまつわるここ数年のエッセイから、中国の農村が置かれた現状を少しでも感じとっていただければうれしい。

●2015年5月20日:野場荘

野场庄

実家から西南方向に3、400メートルほど行ったところに小さな集落があり、野場荘と呼ばれている。野場荘に住んでいるのは10戸ほど、すべて陳という姓の家だ。そこはその昔、ぼくら陳家の脱穀場だったところで、その後じわじわと人が住み始めたのだそうだ。

野場荘の裏には大きく葦が生い茂っている。以前そこは小さな湿地で水生植物が生い茂り、水鳥が暮らしていた。でも子どもからすると葦や菖蒲がざわざわと無限大に生い茂っているように思え、夜にそのあたりを通りがかると、真っ暗な沼地から突然怪物が飛び出してくるのではないかとおそろしかった。

小学校の同じクラスにぼくより4歳年上の、本家のお兄ちゃんがいて、彼といっしょにぼくはたびたびあの沼地に行って、一緒に鳥の卵を探したり、鳥のひなを捕まえたりした。5年生になると、学校の教室で自習するという口実で石油ランプを持ち込んで、ほとんど二人でそこで遊んでいた。

その後、ぼくは上の学校に上がったが、彼は中学を卒業してすぐに村の外へ出ていった。ぼくが大学に合格した頃、彼は外地から女の子を連れて帰ってきて、べたべたととても幸せそうな様子を見せつけてくれた。

彼はぼくに、自分が北京でどんなふうに他人と殴り合い、どんなふうに女の子をひっかけたかを話してくれた。お金がなかったのでどんなふうに仲間とともに天津から北京まで歩いて帰ってきたか、そして途中でお腹が空いてどうしようもなくなったときに、橋の下で暮らす一家に出会い、そこの奥さんが麺を食べさせてくれたそうだ。そして彼は「北京は寒いぞ」と言った。北京に来てからぼくは、大学の宿舎や教室には暖房[*]がついていて、冬には建物の中で夏よりも薄着で暮らせることを初めて知った。

[* 大学の宿舎や教室には暖房:中国では寒さが厳しい長江以北の地域では公共施設や一般集合住宅に公共の暖房が完備されている。郊外の農家も一般に地域共同、あるいは家ごとに暖房ボイラーが備え付けられていることが多い。]

その後、彼が連れて帰ったあの外地の女の子は彼の元を去った。彼は同じ村の女性と結婚して子どもが出来たものの、上海に働きに出て大腿をケガをしてしまい、きつい仕事ができなくなった。

その彼が数年前、同郷の人を連れて訪ねてきて、ぼくに北京で官吏をしている同じ村出身者に連絡をとってほしいと言った。彼に託して他人の借金を取り立てるためだという。それはだいたいこういう話だった。彼が連れてきた同郷の人がある土地で建設現場の親方としてホテル建設に関わった。だが、その土地の新しい官吏がそのホテルは違法建築だと取り壊したため、2、3000万元(約3億5000万円から5億円)の損失を被ったという。彼が人の借金取り立てに関わっているのはその分前をもらうためで、前後して他人から1、20万元(約170万円から350万円)を借りて相手をもてなして、関係作りをしようとしたが、結局そのお金を取り立てることはできなかった。

その後、彼は故郷の村で路面店舗を借り、自分でキッチンに立って軽食屋を始めた。だが、やはり商売がうまくいかない一方で、賭け事にはまってしまい、さらには他人の借金取り立てを請け負ったことで大きな借金を負い、店を閉めて南方に働きに出た。

去年、その彼から電話があった。借金を踏み倒して南方のある都市にいて、ポン引きをするつもりだと言っていた。ぼくに、北京で官吏をしているあの同郷人に連絡を取って、なにか金になる商売ができないかどうか尋ねてくれ、と言った。

今年、帰郷したとき、中風で足元がおぼつかない彼の父親から、彼はまた他の都市に引っ越して働いていると聞いた。

野場荘のあの沼地はいつのまにかなくなっていた。5、6年前の春節に帰ったとき、いとこたちとあの辺りをぶらぶらしたことがある。地面にたくさん大きな穴が開いているのを見て一緒に飛び込んだ。だが、足元が定まらないうちから凍っていた氷が下へと沈み始めて、慌てて手と足を振り回して必死で這い上がった。その穴は、砂をそこから掘り起こした跡だったのだ。

ぼくの家の前には池があった。夏には父さんと一緒にザリガニを釣り、冬は仲間たちとパンツを脱いで魚を捕まえた池だ。今やその池はすっかり埋め立てられ、次々と数階建ての住宅が建っている。村の真ん中にある大きな池は埋め立てられてはいないが、岸辺に汚水処理場が新しく出来ていた。

●2015年9月8日:3題

故事三则

1.

実家のWi-Fiにはいまだにパスワードを設けていないので、毎日夕方になるといつも子どもたちが塀の外に座り込んでそれを使ってネットを楽しんでいる。ただ、うちの便所はその塀のそばにあり、子どもたちがそこから離れて座り込んでいるなら、家人が便所を使うときに気まずい思いをせずに済むのだが。母さんはなんどかの試行錯誤の結果、トイレに行く前にルーターを引っこ抜き、戻ってしばらくしてからつなぎ直すようになった。

ある晩、男が一人塀のところにしゃがみこんでいるのが目に入った。手にiPhoneを握り、じっとそれを見つめている。ぼくが便所から出てくると、自分から彼が声をかけた、「やぁ、帰ってたのか」。頭のてっぺんが禿げた中年男をよく見ると、見覚えがあった。ぼくより5、6歳年上で、子どものころよく一緒に遊んだやつだった。一言二言言葉をかわして、すぐにそこを離れた。うちでよもやま話でもどうだ、と声をかけることはしなかった。

本当のことを言うと、帰ってきた翌日に彼がたびたびうちの塀の外にうずくまってWi-Fiを拝借していると、他の人から耳にしていた。雨の日でも彼はレインコートを着て、そこにうずくまっているそうだ。

ぼくが大学生だったころ、彼は村の外から嫁さんを連れて帰ってきた。以前雨の日の午後、その嫁さんが畑から帰ってくるところを見たことがある。足に泥がべったりついていて、たぶんとうもろこしに堆肥をしていたのだろう。

人が言うには、彼はその嫁さんの間に子どもを6人もうけたが、そのうち4人を売り払い、7、8万元(約121万円から138万円)を手に入れたのだが、賭博で全部すってしまったという。村のほとんどの人たちが彼を忌み嫌っていて、彼に近づくやつはみな、彼が子どもを売った金が目当てだった。

彼のあだ名は「楞小四」。「楞」というのは方言で「バカ」を意味する。だが、彼のほうは知能に問題はなく、見たところ彼の嫁さんの方に知的障害があるようだ。

2.

去年[訳注:2014年]帰郷したとき、叔父宅の子に会った。首には小指ほどあろうかという太い金のチェーンをつけていた。手にはどちらにも金の指輪を3、4個つけていて、見るからに成金そのものだった。車でぼくを送ってくれる間、彼はずっと自分の実力とやらをひけらかし続けた。そして家に着くと、ぽんと2000元(約3万4000円)を放り出し、7、8年前に借りたお金をぼくに倍返ししてやると言った。ぼくは彼に貸した1000元(約1万7000円)だけ受け取った。

当時彼は高利貸しをしていて、噂では800万元(約1億4000万円)くらいお金を持っていたようだ。

今回の帰郷では、彼が警察の手入れから逃げようと、賭場の2階から飛び降りて足を折ったと聞いた。父さんはそれを知って、本当にそんなことで足を折ったのなら、見舞いになんぞ行くかとはっきり言った。

今じゃ、彼はどこからどうやって手にしたのかわからない金をすべてすってしまい、借金だらけになった。あの嫁さんも離婚するって騒いでいるという。

3.

数年前、いとこの姉さん一家が姉さんの旦那のいとこが開発している、村近くの団地に15万元(約260万円)を投資した。団地は結局、建設されず、詳しいことは分からないが、かつて村の党委員会書記まで務めたその男は開発業者の数千万元を持って、子供と嫁さんと一緒に夜逃げしてしまったらしい。

ある夜、村人が彼の車を見かけ、近づいてみたら中に彼が乗っていたが話をしようとせず、ただニッコリ笑って会釈したそうだ。

その男と一緒に団地開発をしようとした他の8人は、みな今監獄にいる。その村ではもう1件、ある委員会の会長がやはり100万元(約1700万円)あまりを懐に入れて、ブタ箱行きになっている。

●2016年2月25日:除夕(春節大晦日)

除夕

どうにかこうにか大晦日の正午前に家にたどり着いた。陽光は降り注ぎ、風が強い日だった。

半年ぶりに帰ってきたが、家の前を走る道路沿いにはまた幾棟かの住宅ビルが姿を表していて、これから建設に備えている家もあった。まったく同じ形の2階半建ての小さなビルは、緑色の窓枠に床までのガラスがはめ込まれ、金色のローマ風の柱で中国風の屋根には吉祥物が並び、とってつけたような中西混成ぶりだ。横の壁はペンキが塗られないままべとっとしたセメントの色むき出しだ。春節がやってくるからと、どの家のポーチにも赤い大提灯がぶら下げられ、お祝いムードを醸し出していた。

よく見ると、あたりでまだ建て替えていないのはわずか数戸だけになっていた。父さんや母さんも言い争っていた。他の家がみんなやってるんだからうちも建て替えないわけにはいかない、でも2階建ての家を建てても(両親以外)住む人なんていないじゃないか、でも新しい家と家に挟まれてしまったらみっともないし、と言い争っていた。

ぼくはその前日に駅のある中心街でスマホを無くしたばかりで、おかげで世界とのつながりを失ってしまい、なんともいえない落ち着かない気分だった。

昼食後、母さんと一緒に春聯[*]と門祠を貼った。春聯は東西南北どこでも同じ風習だが、門祠はうちの辺りでしか見たことがない。門祠とは、「年年有余、五穀豊登」(年々豊かに、五穀豊穣)などの文字を刻んだ長い切り紙で、窓枠の上に貼る。この言葉もぼくが勝手に作ったものだ。というのも、故郷の言葉は音だけで書面の文字がないからだ。

[* 春聯:春節を迎えるために家の入口や門に貼る赤い紙に書かれたお祝いの言葉。]

ドアに貼る門祠が長すぎて一人では貼れなかったので、二番目のおじさん宅のいとこを呼んできて手伝ってもらった。いとこは東北地区の軍隊にいるが、ちょうど士官になって2年ぶりに故郷に戻ってきた。青い空軍の制服を着た彼がベンチに上がってぼくと一緒に門祠を貼ってくれた。だが、あの長い長い切り紙が風に吹かれてゆらゆらとしていたので、母さんはセロテープを持ってきてぺったりと貼り付けた。

小さい頃、村の家に飾る春聯はほとんど父さんが頼まれて書いていた。いつの頃からか、どの家も買ってきた春聯を貼るようになり、誰も彼に書いてくれと言わなくなった。ぼく自身も春聯を最後に書いたのはいつの頃だったのかもう覚えていない。

午後、外で麻雀をしていた父さんが帰ってきた。母さんの年越し料理もほぼ出来上がった。いつもどおり、大晦日の日はまず先祖にお賽銭を焼いてお酒を祀る。だが、紙のお賽銭がベッタリと張り付いていて煙が出すぎたと、母さんがまた父さんに小言を言った。

年越し料理はいつものようにご飯と魚、そして肉。父さんは体調が良くないので、白酒(バイジウ)の小瓶を2本飲んだだけだった。ぼくはいとこの旦那が去年くれた南アフリカのワインを開けて、母さんに一杯注ぎ、残りのほとんどをぼくが飲み干した。

晩御飯が終わるとほどなく宵闇が到来し、外から遠くに近くに花火や爆竹の音がしてきた。母さんが花火の入った箱を持ってきて、ぼくに外で火をつけてこいと言った。夜空に上がる花火を見ながら、ぼくはiPhoneを取り出してその様子をビデオを取ろうとしたが、ふとiPhoneは盗まれたんだったと気がついた。「楚人失之、楚人得之」(自分が失くしたものを、誰か人が手に入れた)ってことなんだろうなとぼんやり考えた。

「80元(約1400円)分があっというまに無くなっちゃったねぇ。去年はお前が帰ってこなかったから、花火は買わなかったんだよ」と、そばでじっと焚き火を見ていた母さんが言った。

●2017年1月26日:「舂」節おめでとう!

舂节欲快,活家欢络!

今年の春節は帰郷しない。数日前、両親が北京にやってきて、このまま一家で北京で過ごすことに決めたからだ。

あと2日で春節、陰暦新年である。英語では一般に「Spring Festival」または「Chinese New Year」「Lunar New Year」と呼ばれる。子供のころ、ぼくらは春節こそが新年だと思っていた。そして春節がくると、本当に一つ年を取ったと感じていた。

「Chinese New Year」は「中国の新年」の直訳で、「Lunar New Year」は「陰暦新年」を訳したものだ。アメリカの大統領と国務長官は毎年、陰暦新年にお祝いの言葉を述べるが、それは「President’s Lunar New Year message」と呼ばれていて、「Chinese New Year message」ではない。というのも、春節はもとはといえば中国が発祥かもしれないが、今では韓国、ベトナムなどのアジア諸国も祝っているからだ。だから政治的な正確さに照らして、「Lunar New Year」と呼ぶようになった。

Lunarは形容詞で「月の」という意味で、ラテン語の「月」を意味する「Luna」から来ている。英語の「月」は「Moon」であることは、みなさんもご存知だろう。

中国では「農暦」と呼ばれる陰暦は、「Lunar calendar」(月のカレンダー)とも呼ばれるが、実際には太陽暦と太陰暦を合わせた「太陰太陽暦 Lunisolar calendar」で、イスラム教のように純粋な太陰暦ではない。たとえば、二十四節気は太陽の動きに準じていて、月の動きではない。だから、中国の清明節はいつも4月4日か5日になる。

中国が現在採用しているのは「グレゴリア暦 Gregorian calendar」で、ローマ教皇グレゴリア13世が1582年に実施した暦法である。それまで使われていたのは「ユリウス暦 Julian calendar」だ。この「ユリウス Julian」というのは、一般にカエサル大帝として知られる「ジュリアス・シーザー Julius Caesar」から来ている。

ロシアの十月革命について耳にしたことがあるだろう。十月革命はぼくたちにマルクス・レーニン主義をもたらした革命だ。その十月革命は現行の西暦に照らすと、実は11月7日に起きている。だが、当時のロシアではまだユリウス暦が使われていたので、その日は10月25日だった。ロシアでは1918年になってやっとグレゴリオ暦を使うようになった。だからロシアでは1918年1月31日の翌日は2月1日ではなく、突然2月14日になった。この日からグレゴリオ暦が施行されたからだ。

春節の前にもう一つ重要な祭日がある。「小年」、かまどの神を祀る日だ。「上天言好事,下界保平安」(火の神様が上機嫌でいてくれれば、外界は平安)といわれる。かまどの神を祀るのは一般に陰暦の12月23日か24日である。南方は「二十四祭灶」、北方は「二十三祭灶」が風習らしい。ぼくの故郷では姓ごとに祀る日がばらばらだ。ぼくの家は何日だったかもうすっかり忘れてしまったが、その日母さんは必ずかまどの神様に聞いてもらおうと、小さな爆竹を鳴らす風習がある。

かまどの神様というのも不思議な存在で、具体的になにが根拠になっているのか、ぼくはきちんと調べたことはない。「論語・八佾」[*]には、「王孫賈問孔子説,『與其媚於奥,寧媚於灶,何謂也?』」とある。「奥」とは家の西南角で、家の中で最も日が当たらず、最も奥まったところを指していて、「奥秘」など「奥」という文字が持つ意味はここから来ている。古人はそこで祀りをし、そこから家の中で最も尊い場所とされるようになったという。

[* 論語·八佾:「八佾」は論語の20篇のうち第3篇目にあたり、26本から構成されている。]

かまどは、いわゆる「五祀」[*]の対象の一つだ。その地位はそれほど高くはないものの、その役割は直接的である。論語がいうのは、だいたいこうだ。

[* 五祀:戸神(家に宿る神)、灶神(かまどに宿る神)、土神(土地に宿る神)、門神(出入り口に宿る神)、行神(道に宿る神)を祀ること。]

「王孫賈は遠い県の官吏に媚びるよりも、直属の管理者に媚びるほうが役に立つと考えたが、それに同意しなかった孔子はこう述べた。『いや、天上の神を怒らせれば、どんなに祈祷しても無駄である』」

かまどの文字は簡体字では「灶」だが、繁体字だと「竈」と書く。ぱっと見てもどんな字かよく見えなかったら、それが正しい文字だ。

それではみなさん、「舂」節をにぎやかに、ネットで楽しく過ごしましょう!

●2018年1月4日:百態

百态

ぼくがずっと結婚しないままなので、村ではとっくに「ダメなやつの見本」にされてしまっている。母さんは人の多いところには出かけたくない、人に尋ねられたら気まずいから、と何度もぼくに言う。今ではこのレッテルもますます根深いものになっていて、「女も見つけられないなんて、大学出てても役立たずは役立たずだな!」と、ある村の人は人が集まる場でこう言い放った。

2017年5月、長年がんと戦ってきた小学校の時の徐先生が亡くなった。徐先生はとても落ち着いた物腰で、言葉遣いも丁寧な人だった。ぼくにとって、お見合い相手の基準は今でも徐先生だ。徐先生と同じくらいか、もっときれいだったらいい。つまり、とても美しい人なら。それを聞いて母さんはちょっとムッとした。というのも、徐先生はもう亡くなってしまった人だからだ[*]。

[* 中国では死人と生きている人を比べるのは、生きている人に対して不敬にあたる。]

徐先生が亡くなってから半年も経たないうちに、残された旦那がガールフレンドを作ったらしい。それで娘さんと大げんかをしたという。ぼくはもちろんそれは個人の自由だし、決して悪いことではないからそれでいいと思う。だが、性別が逆だったら、つまり女性がボーイフレンドを見つけたなら、世間はそう簡単に許さなかっただろう。寄ってたかって爪弾き、はさすがに大げさかもしれないが、あれこれ噂されるのは間違いない。小学校のときの同級生はずっと前に父親を亡くしたが、母親はその後年のいった人と交際を始めた。そのことに村人が触れるとき、その口調はほとんどが貶しだ。男女平等は本当に難しい。

中学校の同級生は以前、人と一緒に携帯電話を売る会社を作り、彼は外回りの影響を担当し、パートナーが運営を担当した。半年前、よそからやってきたパートナーが撤退を決め、彼は地元に残ることを決めて会社を引き継いだ。一つは数十人いる職員のため、もう一つは自分も放り出してしまったら故郷で(肩身が狭くなって)今後暮らしていけなくなるからだ。短期間に200万元(約3500万円)をかき集めてパートナーとの手切れ金と近く契約切れになる部屋代に当てた。結局、会社の職員たちを引き止められただけではなく、新たに店舗を2つ開き、3部屋あるマンションの一室をオフィスとして借り、新しい職員を募集するに至った。だが、この半年の間休みなく働き詰め、いつもいつも辛そうに苦しそうにプレッシャーと戦っていた。楽に生きられる人なんて誰もいないんだよな。

●2018年1月8日:帰郷メモ

回乡偶记

数ヶ月見ないうちに、実家の前後に二階半建ての住宅がまたいくつか出来上がっていた。外見はほとんどそっくり同じで、金色のローマ風柱、中国式の屋根の吉祥物飾り付き、という代物。一棟だけ3階建ての建物はどうにか施工主がどうやら少々まともな審美眼を持っていることを教えてくれるが、にょきっと伸びたその様子は鶏の群れに迷い込んだツルのようだ。

ぼくの家ではなにも建てていない。お金がないし、建てるつもりもない。隣の家もまだだが、すでに予定は立てている。遠くからぼくたち2軒の様子を眺めると、それはまるで前歯が2本抜けた子供の歯並びみたいだった。

20年前、江蘇省南部ではどこの家も自宅を建て替え、小さな車を買っていたころ、ぼくたちの村はやっと瓦の載った屋根の家に住めるようになった。いまやっと、ぼくたちの村も2階建ての家に住み、小さな車を運転できるようになったが、江蘇省南部の人たちはすでに豆乳を1杯飲みながらもう1杯は大地に捨てるほど豊かになってるんじゃないだろうか?

建物はどれも一見して田舎っぽさが漂っているが、それでもどうにかカッコはついている。最大の問題は農村には集中した下水道システムがないことだ。水洗便所という現代的な設備はつけたものの、それぞれの家でし尿処理用の穴を掘らなければならない。上に厚いコンクリートの蓋を置き、自然に地下へと浸透させるのだ。もし、そこからあふれ出そうものなら、いたるところに「黄金」が散らばることになる。たとえその心配はなくても、地下水が激しく汚染されることは間違いない。

今回の帰郷は祭日でも正月でもなかったから、子どもの頃の遊び友だちはみな、外に出稼ぎに行っていた。大学を卒業した後蘇州で働いていた大利が仕事を辞めて嫁さんと一緒に戻ってきて、電子商取引に専念していた。彼の家のドアを開けると、彼と嫁さんが太陽がさんさんと降り注ぐ部屋の中でそれぞれにノートブックコンピューターを見つめていた。

大利と嫁さんはネットショップで血圧計、おもちゃなど何でもかんでも売っていた。彼の手元には在庫はなく、ただの中間販売者として注文を受け取ってからサプライヤーに配達を手配するという方法である。売上はどうだ、と尋ねたら、蘇州で働いていたときと同じくらいだ、でもこっちのほうが制約がなくて自由だね、と言った。

彼が言うには、今では村のどの家もビニールハウスで野菜やスイカを作っていて、1年にビニールハウス10個位は売れるから、それぞれ2、3万元(約35万円から50万円)とすれば1年に2、30万円(約350万円から500万円)くらいの収入になり、コストを差し引いても半分が利益になるという。村でも5、60万元(約870万円から1000万円)の現金をぽんと出せる家は少なくないのだそうだ。それを聞いて、ぼくはなにも言えなくなり、手にした保温カップを見つめるしかなかった。

1時間ほど子どものころの話をして、二人が忙しそうにしているのを見て、邪魔をしては悪いとぼくは家に帰った。

跑反

当下热映的影片《无问西东》讲述了四代清华人的故事,褒贬不一,意料中事。吾非清华亦非北大出身,母校甚至连985/211都不是,最多只是在招聘中“视同211学校毕业”,自然对剧中背景无法感同身受。观影时,边上一位男士可能是北大毕业,不时和女伴窃窃私语,指点江山。

电影中表现的西南联大倒非常贴近我之前了解的历史,就连师生“跑警报”也用镜头语言表现了出来。

所谓跑警报,就是躲避日军飞机。西南联大毕业生、沈从文高足汪曾祺曾在跑警报一文中,有详细描述,此处不再赘述。

值得一提的是,电影中甚至描述了主角之一沈光耀在跑警报时煮冰糖莲子的细节。这应该就是来自于汪文中那位别人跑警报,他却怡然自得煮莲子的广东郑同学。广东人吃货之名,诚不虚也!

汉语中有个词“跑反”,现在已不多见。所谓跑反者,词典解释为“為躲避兵亂而逃往別處。或作「逃反」。”(注1)

我奶奶出生于民国初年,孩提时家境优渥,但五岁时父亲去世、母亲改嫁,奶奶沦为孤儿,此后艰难度日,酸辛尝尽。老家此时先是匪患猖獗,军阀相交伐。后来日本进犯、神州陆沉,不足百人的一支日军中队占据我县,直至光复。再后来国共阋墙,吾乡成为战场,跑反遂为常态。我小时候,便常常听奶奶讲她过去跑反的故事。据说某次夜里,她露宿野外,还看见一位打着灯笼,倏忽而过的小童。

及至中原定鼎,跑反一词几近消亡。中间虽有大饥荒等等各种,奈何迁徙已无自由,跑反便无可能。

没想到的是,到我奶奶七十多岁时,跑反一词又常常挂在村人嘴边。此时,计划生育政策已执行有年,在农村开始还只是罚款了事。90年代政策升级,常有计生人员领一帮地痞流氓,到人家里牵牛扒粮,甚或毁人房屋、抓人亲眷。当时,村里几乎处处可见断壁残垣。不知情者,还以为战事又起。

于是,那些怀了二胎、甚至头胎的夫妇,有远亲的便投奔远亲,没有的那就只能尽量跑反去了。我舅妈生第三个女儿时,便跑反在我家,足足过了几个月。

时移世易,不到20年,许多事情仿佛如昨,但促进人口增长看起来竟然要提上议事日程。不知届时,那些不生二胎甚者丁克者,又要如当年那般跑反?

(注1)来自教育部国语词典网站

回乡偶记

几个月时间不见,家前屋后又竖起了几座二层半小楼,大部分外形雷同:金色罗马式立柱,中式屋顶带脊兽。偶见一栋四不靠的三层楼房,房主可能稍有审美,嶢然独立,如同鹤立鸡群。

我们家还没盖,没钱,也不打算盖。邻居家也没盖,但已提上了日程。远远看去,我们两户人家如同掉了两颗门牙的孩子。

20年前,听闻苏南家家户户住楼房、开小车,当时我们才刚刚住上瓦房。如今,我们终于也住上了楼房,开上了小车,不知道苏南人家是不是已经豆浆喝一碗倒一碗了呢?

这些楼房虽然看上去乡土气息十足,倒也还能勉强撑撑门面。最大的问题是,农村没有集中的下水道系统。虽有抽水马桶这些现代化设施,却也只能自家挖化粪池,上面是厚厚的水泥盖,任其往地下渗透。倘若池满溢出,那便是黄金满地。即便无此顾虑,对地下水只怕也是极大污染。

这个时候,非年非节,儿时玩伴大多都在外打工。听说大学毕业后在苏州工作的大利已经辞去工作,和老婆一起回到老家专心做电商。推开他家房门时,他和老婆正坐在向阳的卧室里,每人面前一台笔记本。

大利和老婆开网店,什么都卖,血压仪、玩具什么的。但他其实并没有货,只是个中间商,接下订单后,再让供应商发货。问他收益如何,答曰和在苏州打工差不多,只是这样比较自由些,不受约束。

又听他说,村里如今几乎家家户户做大棚蔬菜西瓜,一年十个不成问题,每个收入2、3万,加起来一年收入二三十万,除去成本也能剩一半利润。据说,村里能拿出五六十万现金的人家,不在少数。听到此处,我默默低下头看了眼手中的保温杯。

又聊起小时候另外一个玩伴,大我们六七岁。和外地老婆生了八个孩子,卖了六个,包括两对双胞胎。卖儿鬻女,得了二三十万,早已被他在赌场挥霍一空。

想起某年回家,看见一位中年秃顶男坐在我家屋后,捧着个手机在蹭网打游戏。他看我走近,抬起头盯了一会,认出了我。我也只打了个招呼,没有多说,便匆匆离去。

又聊了一会小时候的事情之后,看大利他们两口子业务繁忙,没敢再打搅,便打道回府。

到家第二天,看见邻居家母狗刚生的三只小土狗,在我家门口垃圾堆上四处寻觅着什么。听说,前一天晚上,一只大狗闯进狗窝,可能咬伤了其中一只小狗。结果,一见有人靠近,这只小狗就不停的叫起来,不是那种汪汪叫的狗吠。叫声呜咽,颇有种“巴东三峡巫峡长,猿鸣三声泪沾裳”的感觉。

听说,这只母狗生了四只,有一只已经送人了。第四天,只看见一只小狗。原来另外两只也送人了。而这一只,也已经说好了要送给别人家。

百态

因为迟迟未婚,多年前我就已成为村里的负面典型,母亲多次表示不敢去人多的地方,生怕别人问起。如今,这种标签尤为加深。“连女人都找不到,他算什么大学生!” 某位乡亲当众如是说。

2017年五月,与癌症搏斗多年的小学徐老师去世。徐老师生前端庄大方,谈吐得体。就连别人现在给我介绍对象,都会以她为标杆:跟徐老师差不多,可能还好看。这意思就是很漂亮了。虽然我妈听了有点不乐意:毕竟徐老师已经过世。

徐老师去世不到半年,听说鳏夫已有了新欢,女儿还因此大吵一架。这当然是个人选择,无可厚非,我也非常支持。只是,如果性别倒置,换成女方这么干,恐怕就是另外一回事。千夫所指有点夸张,遭来无数指指点点倒应该是真的。小学同学的父亲多年前去世,其母后来找了个老头。村人谈起,语中便多有不屑。性别平等,殊非易事。

儿时玩伴大专毕业后一直在苏州打工,去年6月决定回家。如今和老婆人手一部笔记本电脑,每日端坐室内,做起了电商。卖的东西范围广泛,血压仪、玩具什么的都有。问起收益,答曰和打工差不多。

中学同窗,以前和人合伙开公司卖手机,他负责出去跑业务,别人负责运营。半年前,外地合伙人决定撤出。他身为本地人,决定接手公司。一则为几十口员工考虑,二则考虑到自己如果也撒手不管,以后在家乡只怕难以混下去。短时间内,东拼西凑了两百万,给了合伙人作为分手费以及支付即将到期的房租。最终,不仅稳住了公司老员工,还成功新开了两家店,租了个三室一厅作为办公室,招了新人。只是这半年中,无一日得闲,无一刻不焦虑重重。谁都不易。

修家谱

陈姓在我村占据半壁江山,但我自幼从未听闻有家谱一说。就连辈分也只能上溯到我高祖,下至我子侄辈,再往后便无字可用。究其原因,无非是陈姓族人大多穷困潦倒,难有挑头之人。譬如我家,祖上三代都上无片瓦,下无立锥之地,靠做佃户勉强生存。

这几年,大概大家兜里都有了些钱,心思也都活络了起来。2006年,曾经联合修过宗谱,我家迄今还藏有半部。洋洋洒洒几百页,我认识的没几个。不过居然还看见高中同学的名字,我可是完全没想到我们还能在同一本宗谱上出现。

这部宗谱收录的人号称系出同源,虽然已经覆盖了相邻的两个县。其中究竟多少属于同宗,只怕难以说清。

去年底,父亲不知怎么认识了一位同姓族人,受其鼓动打算重修家谱,还亲自撰写了《告xx堂陈姓书》,欲召集人手成立筹备组。

最后的结果是,父亲自掏腰包在村里小饭店请了一干人等大吃一顿,喝了十来瓶酒。我从柬埔寨带给他的米酒也被拿了过去,虽然没喝,却被本家某位叔叔捎了回家。至于修谱资金,目前尚无着落。

所谓家之有谱,犹国之有史。我对于修家谱一事,向来不反对不支持,甚至有些不以为然:反正所有人类都起源于非洲。

修家谱常往脸上贴金,如家族中近几代有什么光宗耀祖的人物,哪怕只是个乡科级,也是要写进去的。如果实在没有,那只能强行追溯到某朝某代的帝王将相 甚至黄帝了。

昨天看到新闻说,网络商城“京东”创始人、我的隔壁老乡刘强东发布寻祖公告,因其太爷爷从湖南湘潭移居江苏宿迁。

虽然个人财富判若云泥,但在这一点上,我们黄泛区人民还是挺相似的。